夢でも良いから 桐生南無の会会報平成23年12月号掲載文
いよいよ師走、今年も残すところ一ヶ月を切ってしまいました。何と慌ただしい年であったのかと、振り返ってみるとつくづく感じます。昨年も同様に感じていた自分を思い出します。これは苦笑いでやり過ごすしかないようですね。
まず原因の第一に挙げられるのは、自分が歳を取ってきているから?でしょうか。なんたって瞬発力が落ちています。一晩で仕上げられるはずなのに・・・・・。もどかしい思いで一杯になって来ます。
持久力も体力も確実に落ちてきていますし、記憶力に至っては情けない限りです。直ぐに疲れてまぶたが重くなってしまう、どうにもしようがありません。
慰めは、血液検査の結果は極めて良好。そして、好奇心だけは旺盛なことでしょうか。インドに対する思いだけは依然ハイテンションを保っています。これが落ちたら立派な年寄りの仲間入りかも知れません。なんたって、年金受給者となってしまっていますからと、自虐的な部分もちらほら。
今実現したいのは、やはりインドの仏跡参拝が一番です。調べれば調べるほどに新たに行きたい地が出てきます。やはりインドは奥が深いお釈迦様の地なんですね。
今最も関心のある地はコーサンビー、お釈迦様も安吾されていますし、アショカピラーもあります。大きな遺跡群を有する地の様なのですが、なぜ八大聖地から漏れてしまっているのか?
四大聖地はお釈迦様自らが定められています。その後アショカ王が四カ所を加え、八大聖地が成立しました。アショカ王はどの様な思いで四カ所を選ばれたのか。考えを巡らせている時はたまりません。
インドのピプラワがカピラ城として優勢になって来たら、巡礼者にとって最も都合が良い入出国ルートを閉鎖してしまった、こんな事実も発見です。お陰で私達は二時間以上の遠回りを余儀なくされているのです。
ルンビニを早朝に出てピプラワ・サヘートマヘト(祇園精舎)を経てラクノウという町へ。早くても夜8時過ぎにやっと着く。これが夕方6時に着くことが出来ればどれほど楽になるか。
参拝に訪れる巡礼者に意地悪をしてもネパールにとっては何の得にもならないのに・・・・
グーグルアースを相手に、参拝気分に浸ることも楽しいことであります。仏跡の場所を探しだすことはとても根気のいる作業です。まして参拝をしたことがない場所を探しだすことは容易なことではありません。仏跡のある場所を知りたい方には、細かい情報を教えて差し上げますよ。
インドの田舎道をバスにゆられて・・・、そんな初夢が見たいものです。
燃えました 桐生南無の会会報平成23年11月号掲載文
先日26年ぶりに遊行上人の御親教を受けたところです。話が教区会でまとまったのが二年半前。それからあっと言う間に時間が経過してしまったという感じがします。
せっかくお上人(時宗では上人というとオンリーワンです)にお越しいただけるならと、計画を立て、檀家さんに寄付をお願いして・・・・。いよいよ本格的な準備に入ろうとした矢先に東日本大震災に見舞われてしまいました。
最初のうちは、一ヶ月もすれば落ち着きを取り戻せるのではないかと高をくくっていたのですが、いまだに混乱が続いていることは皆さんご承知のとおりであります。その影響もあり、予定していた工事がなかなか始まらず、しかも他のことであれやこれやと振り回されてしまいました。
思い通りに事が進まないことは世の常であります。そんなことは百も承知でありますが、ぼやくも多くなろうというものです。
準備は、日が迫る中でどんどん細かいことを考える必要に迫られます。残り時間は時々刻々少なくなり、気があせるばかりで、ついには胃薬のお世話にもなりました。直前になると、連夜の夜更かしとなり、寝不足がさらに追い打ちをかけてくれます。こんな中でついに当日を迎えることになりました。
沢山の方々の力をお借りして、何とか二日間を切り抜けることが出来ホッとしたのもつかの間、今まで止めていた物事を動かさなくてはなりません。本来ならじっくりと充電をして、と言いたいところなのですが、そうは問屋が卸してくれそうにありません。それにしても、良く身体が持ったものだと我ながら感心してしまいます。
火事場のバカ力とはこんな事を指しているのかもしれませんね。
そして、一つの事業を完遂するためには、沢山の方に迷惑をかけ、そのお力にすがるしかないことを改めて感じることになった次第です。力を貸していただける自分は、実に幸せな人間であります。
一つの目的に向かい、みんなで燃えることが出来る。これもまた素晴らしいことであります。つくづくと人間をやっていて良かったと思うわけです。
それにしても、いまだに頭はボーッとしていて、眠くてたまりません。アクビと睡魔が立て続けに襲ってきています。これでは思うようにはかどるはずがありませんよね。
ポツポツと片付けをしながら、少しの苛立ちと、達成感、そして我が身の幸せを味わっているところであります。
この次インドに行く時に、お釈迦様にどの様に報告させていただこうか。などと考えながら、あせる気持ちをなだめているところでもあります。とにかく無事に終わって良かった。ナーム
命に囲まれて 桐生南無の会会報平成23年10月号掲載文
毎朝のことであるが、本堂へ向かう時の光景です。朝のお勤めをするために本堂に向かう廊下を歩きます。すると人の気配を察した金魚たちが一点に集まり出します。それまで池のあちこちで泳いでいる金魚たちは、餌にあり付ける場所に急いで泳ぎ出すわけです。
最も大きな金魚達は既に15歳以上、20センチを優に超える大きさであります。
この時期になると、大きな金魚に混じって、今年生まれた小さな金魚の姿を見る事が出来るようになります。やっと赤くなり、また喰われる心配がない程度に成長できた、運の良い金魚たちです。
金魚に限らず、魚たちは自らが産卵した卵を食べてしまいます。食べられずに孵ったメダカもほとんどが食べられてしまうのです。色は目立たないためになのでしょうか、ある程度成長するまでは黒くて、きっとおどおどしながら密かに時の過ぎるのを待っていたことでしょう。
赤くなりだした初めのうちは睡蓮の葉陰に見え隠れしていたものが、やがて親たちに混じって遠慮がちに餌を突っつくようになるのです。そのチビ達に「おまえ達はよく頑張ったね、運も良かったんだね」と話し掛けるわけです。
もう少し大きくなると、今度はサギがやってくるかも知れません。大きく成長することは至難なことなのです。毎年繰り返されるこの営みにより、金魚たちは絶えることなく池で命を繋いできました。
前庭の池では、はじめて鯉も一匹だけ成長しました。もう10センチ近くになったでしょうか、子鯉に気が付いた時には本当に感動ものでした。しかしいまだに親たちと一緒にはなれずにいます。
日々変化がないようでも、そこには常に感動があります。発見に満ちあふれているのです。
そう言えば、温暖化のせいでしょうか。今年になってヤモリを二匹見ました。今までは滅多に見る事が出来なかった姿であります。玄関脇の壁で10センチ位のやつを、本堂のガラスで5センチ位の子どもを見る事が出来ました。
本堂の向拝では夜な夜なオヒキガエルを見る事も出来ました。ヤモリと同じく、明かりに集まる虫が目当てのようです。じっとして動かないのですが、朝には姿を隠してしまいます。台風が過ぎて、急に気温が下がりましたので、どうしているのでしょうか。
芝生にいるトノサマバッタたちは、お彼岸中は墓参にきた子どもたちの格好の遊び相手にされていました。
多くの命に囲まれていることを改めて感じることが出来ました。一緒に生きることが出来る、生かされていると感謝せずにはいられません。
必至無上道 桐生南無の会会報平成23年9月号掲載文
女子サッカー、ワールドカップの興奮が未だ冷めません。決勝戦でのアメリカとの名勝負、今思い出しても鳥肌の立つ思いです。
延長戦の後半、残り時間もあとわずか、誰もがアメリカの優勝を確信していたかも知れませんね。画面を見ながら『ここまで良くやった』誰もが応援しながらも言い聞かせていたのではないでしょうか。
ラストチャンス、コーナーキックに突進する沢選手、そして何がおきたのか信じられないことが。エッ、本当にゴールなの?そして次の瞬間、ヤッター同点だ。
スロービデオで何回見ても、信じられないようなスーパープレーです。今年のサッカー全てのゴールの中でも1・2にあげられるものだと思います。
大震災、原発事故と、日本を根底から変えてしまうような大災害の最中、気持ちまで落ち込んでしまった私達に大きな勇気を与えてくれました。
そして、韓国で世界陸上が始まっています。来年のロンドンオリンピックを見据えた選手達の必至のプレーが繰り広げられるはずです。
このフィールドに立つのは、地道に鍛錬を積みあげた天才達です。世界中の選び抜かれたアスリートが、持てる限りの力を尽くして勝敗を争います。だからこそ、見るものを引きつけ感動させるのです。
競技の中では、必ず順位が付きものです。みんな仲良く一等賞。そんなことは有りえません。それだけに、とてつもない厳しさがあることは否定できません。
しかし、私達の人生においてはちょっと違う観点が必用だと思えてなりません。人生の『勝ち組』『負け組』そんな言い方が良くされたことがあります。一等にならなくてはダメダとばかりに、尻を叩かれ、無理矢理に勉強を
させられ・・・・。
今回の表題『必至無上道(ひつしむじようどう)(必ず無上道に至らん)』は、法蔵菩薩の修行に対する決意であります。必ずや、この上もない悟りを目指すというものです。そして阿弥陀仏となられました。
私達は、この世に役割を与えられて、選び抜けられた結果送り出されたと考えた時、その責任の重さを感じることになります。
しかし、一等賞になることを課せられているわけではないと思えてなりません。自分に納得できるために最善の努力をすることが求められているのだと思います。
「もう帰っておいで」声をかけられた時、「有り難うございました」とお返しできるような命でありたいと願うものです。
一寸先は闇、何が起きるか分からない人生ではありますが、燃焼し尽くしたいものであります。
酷暑に生かされて 桐生南無の会会報平成23年8月号掲載文
例年よりだいぶ早く梅雨が明けました。そしていきなりの酷暑です。雨も、集中豪雨の注意報をテレビで見ているだけで、雨が降らずに汗まみれです。渡良瀬川は一時二十%の取水制限に入っていました。おまけに節電です。私たちに出来ることは、エアコンを我慢し、雷雲のない空を見上げてため息をつくことぐらいしか有りません。
こんなお天気でも、元気者はいます。蓮は例年よりもずっと早く花を咲かせました。沢山の花を一気に咲かせたという感じです。ところが新しく出てくる葉は、弱々しいもので、蕾はありません。どうやら暑さ負けをしてしまったのでしょうか。
墓地に生える雑草にも異変があり、ドクダミはとても大きく育ちました。白い花が満開になった時には感動すら覚えるものでした。いつもはろくに生えないはずの厄介者がはびこり、掃除の手を遅らせてしまいました。
どうにもすることの出来ないお天気、でもそれに対して相応しいものがあると言うことを実感した次第です。節電でエアコンを控えめにせざるを得なくなった私たち。上手く対応がとれていませんね。
いつも申し上げていることなのですが、私たちは機械などに頼ることが当たり前になってしまっています。自らの知恵を働かせて何とかしようとすることがとても苦手になってしまいました。ですから機械などの力に頼ることが出来なくなってしまうと、実に無力な存在と化してしまいます。
この夏、玄関のエアコンはほとんど使っていません。扇風機にひたすら頑張ってもらっています。なぜなら、玄関を閉めきりにするわけにもいきませんし、涼しい中にこもって居続けることも出来ないからです。
お陰で汗疹との戦いに明け暮れています。作務をすればぐっしょり汗まみれ、熱中症になりかけることもあります。こうなったらどうにもしようがありませんから、笑い事にしてしまうしか術がなさそうです。
それにしても原発の騒ぎは収まるどころか、返って拡大しています。こうなるのであれば、最初からちゃんと情報を出しておけば良かったのに。変に隠し立てをしたばっかりに、常に後手に回ることになってしまった。多くの人が感じていることではないでしょうか。
地デジ化の騒ぎ、中国の列車事故。どこに目線が向いているのか。そんなことも頭をかすめるのですが、どうか頭だけは熱くなりませんように。文句の一つも言いたいでしょうが、冷静さだけはなんとか保ちたいものであります。
どうやらこのまま暑いお盆を迎えることになりそうです。一生懸命に知恵を働かせて、長くて暑い夏を乗り切ろうではありませんか。
自ら感じること 桐生南無の会会報平成23年7月号掲載文
6月18日、桐生仏教会として大震災(大津波)の被災地である宮城県岩沼市並びに南三陸町で百カ日忌法要を営ませていただくことが出来ました。 被災地を前にして感じたことは、報道などで見聞きしていたものとはだいぶ違うということです。深い心の傷を負われた皆さんの心中を察すると涙が知らずに流れ出てしまいます。
被災された皆さんと般若心経を一緒にお唱えし、ご供養を申し上げたのですが、般若心経の根幹をなす『五蘊皆空』について考えさせられました。
『五蘊』とは『色受想行識』の五つのことで、私たちの世界の現象を、物質と精神の作用として説くものです。この第一に『色』とあります。これは『眼耳鼻舌身意』を表し『色声香味触法』の六境を知覚する『六識』であるとしています。これらは全て般若心経の中に出てくる言葉ですね。
この六識の『意』以外が私たちの持つ知覚機能であります。この知覚機能のことを『五官』と言い『五根』とも言います。
今私達が『五感』と言っているものがこれに相当するものであります。すなわち『視聴臭味触』であります。視=眼・聴=耳・臭=鼻・味=舌・触=身となります。
さて、私たちは通常備わっているであろうこの感覚器官、機能をどれほど使いこなしているのでしょうか。はなはだ疑問に思うのであります。被災地で改めてこのことを感じた次第であります。
現状はテレビのニュースで見ているから全て分かっている、本当でしょうか。カメラを通して映し出されるものは極めて限定的であると言えないでしょうか。カメラが映し出せる範囲はせいぜい30度前後の幅であります。周囲360度で見ればわずか十二分の一にしかなりません。撮影者の背中側は決して映し出されることがありません。
実際に自分の目で見た場合でも、わずか三分の一、120度ほどしか視界には入って来ないのであります。自らの体を回転させて初めて見たと言えるのであります。映像では感じることの出来ない津波の恐ろしさ、怖さ、残酷さが我が身を震わせます。
志津川の防災対策庁舎、その周囲に広がる惨状、そして津波を免れた地域、それがはっきりと直線的に明暗を分けていました。歌津でも、本当にここまで来たのかと驚くばかりでありました。
岩沼市の恵洪寺さんの山門前に広がる田畑しかりでありました。海など全く見えないし感じることが出来ない場所であります。
我が身、全身全霊で感じることは、映像の発達等でますます少なくなってしまう現代において、極めて重要なことと感じる供養となりました。 合掌
27年の歩み 桐生南無の会会報平成23年6月号掲載文
昨年桐生仏教会は設立百周年を迎えました。今改めて百年の重さを感じているところです。
桐生の中にいると分からないのですが、宗内の仲間に各地域の仏教会の状況を尋ねてみると、桐生仏教会の凄さを実感できます。私たちの先輩が残してくださった大いなる財産であると、胸を張って言うことができるものです。 桐生市民の皆さんも、仏教会が何か行事をすることは当然だと思っていらっしゃるでしょうが、こんな仏教会には他ではお目にかかることがないのです。
仏教会でまとまってのお寺参り、当然自分の菩提寺とは違う宗派の寺院参拝が多くなります。僧侶の側としてもそうですが市民の皆さんにとっても宗派を超えて一緒に和気藹々とした雰囲気で参拝が出来る、本当に素晴らしいことであります。
宗派を超えて地域の寺がつきあう、当然だと思っていたのですが、どうも桐生は特別らしい。そう感じてから他の地域にも関心を持つようになったものです。
こういう下地があるからこそ、宗派を超えて南無の会の活動が出来ているのでしょうね。今では年金を頂く私ですが、桐生南無の会が始まったときには名実ともに青年僧でした。いやはや、アッという間の二十七年であります。
先日、日本人の平均寿命がさらに延びたと新聞で読みました。男性もついに八十歳の大台に達したとあります。その中で27年とは、三分の一を占めるのです。この先27年は無いな、そう考えると人生が実に短いものであると感じてきます。
既に三分の二以上が過ぎ去ってしまった、まだまだ大したことも出来ていない。あまりにも中途半端な自分に愕然としてしまいます。
人生は長い?短い?皆さんはどう感じていらっしゃるでしょうか。どちらにせよ同じ時間であります。文句を言いながら生きても、感謝しながら生きても、たどる道は同じだと思います。そうだとすれば、感謝するしかないと思えませんか。そして、わずかずつでも良いから、積み重ねるほかありません。
南無の会が正しくこれに当てはまります。27年の間には風前の灯火状態もありました。継続する意義を見失いそうにもなりました。最後には居直りまで。
しかし、たとえわずかであっても、例会に足を運んでくださる方がいらっしゃいました。今そのころを振り返ってみると、感謝の思いが沸々とわき上がってきます。そのお陰で、今日があります。
周年記念講演会には、松原泰道先生をはじめとして、多くの著名な先生方にお越しいただけました。『どうしたらお呼びできるのか?』そんなことも度々問われました。問われて初めて大変な方をお呼びしていたのだと分かる次第で、赤面の至りです。
この27年間、実に沢山のお陰を頂き、こうして歩んでくることが叶ったわけであります。本当に凄いことだと思えてなりません。知らぬ事とは言えずいぶんとぶしつけなお願いをしたことでありましょう。それにも拘わらず、大きな気持ちで応じてくださったのであります。
どうすればこのご恩に報いることが出来るのか考えたときに、桐生仏教会を立ち上げた百年前の偉大な先輩方の思いを感じることが出来ました。百年前、設立に水を得たかのように矢継ぎ早に様々な事業を展開したそのエネルギーの源にあったもの、正しく今を生きている人たちに向けた強い意志を感じるのです。
学校や図書館、更正施設と、今では公が行うべき事業を展開しています。そしてその時起きた事業が、主体を変えながら残っているのです。時代の求めたものにしっかりと応えたからに他なりません。
さて、今私達に求められているものはと考えたとき、今回お招きが叶いました篠原師にたどり着いたわけであります。
流行歌は、その時代を反映していると言われます。時々テレビで懐メロ特集みたいなものが放映されています。その曲が出来た時代背景や、作詞家の考えていたことなどが併せて紹介されたりもします。なるほどと納得できることが度々ですが、本当によい歌は時代を超えて語りかけてくるものがあることに気付きます。
時代の寵児ともてはやされ、テレビに出ない日はないほどの売れっ子であったはずなのに、アット言う間に消えていってしまう。そんなことも目にしますが、これは本当にその時代が求めていたものか、疑問に感じるものも沢山あります。本当に時代が求めたものには、消えずにしっかりと残る何かがあると思えてなりません。
桐生仏教会の百年を振り返ったときに、改めてその普遍性を感じるのであります。そして南無の会が27年続く事が出来た意義が少しでもそこに近づければとねがうものであります。
南無の会の設立理念『一宗一派にこだわることなく』に最も忠実な会の一つであると自認し、それを誇りとしているのですが、今後新たな広がりを求めて止まないものであります。
理論ではなく、実践の場としての桐生南無の会。もっともっと大きく育てていただきたいと念願するものです。「お前たち良くやったね」泰道先生に、森永老師に、吉野猛彦師に、松原哲明師に、南無の会でお世話になった先生方に浄土でお会いするときに声をかけていただけるような、地味かもしれませんがそんな積み重ねをしたいものであります。 合掌
人知を超えて 桐生南無の会会報平成23年5月号掲載文
3月11日の大震災発生から早くも四十九日が過ぎました。以来、震災にかかる報道は一日たりとも途切れたことはありません。
新聞紙面では『亡くなられた方々』という欄がもうけられ、一日も休まずにこの大震災の犠牲になられた方のお名前が掲載され続けています。身元の判明していない方を含め、死亡者は既に一万四千人を超えています。行方不明の方も未だ一万二千人、この震災がいかに凄まじいものであるかを語っています。
発生直後のガソリンをはじめとする混乱は、一応の落ち着きを取り戻してはいるものの、いつまたパニックに陥ることかと、不安は拭いきることが出来ません。連日の余震がさらに不安を大きくします。
まして、マグニチュード8に達する大きな余震発生が想定され、東海・東南海・南海という、東日本大震災を超えるかもしてない超巨大地震の発生までもが取りざたされるに至っては、冷静を保つことは極めて困難な事であります。
高知県の土佐市で、二千年前の巨大津波の痕跡が発見されたといいます。マグニチュード9級の巨大地震によるものらしく、東日本大震災の規模を遥かに超えるとも言われています。一体どうなってしまうのでしょうか。
この惨状に追い打ちをかけているのが福島第一原発の事故であります。遅々として進まない事故処理に苛立ちが募ります。さらに警戒区域に指定され、立ち入りが禁止された半径20キロ圏内の動物のことを考えると、いたたまれなくなります。犬や猫のペットたちがさまよっている映像がテレビで流れていました。面倒が見られないからと放されたウシが群になってさまよってもいました。
そして、その動物たちは助け出すことが禁止されているといいます。追い打ちを掛けるように、安楽死をさせると報じられています。身を切られる思いがします、この怒りをどこにぶつけたらよいのか、やり場のない思いです。一体どれだけの命を奪えば気が済むのでしょう。
画面に映し出された動物たちの姿に哀れがつのってしまいます。飼い主の心には、とてつもなく深い傷を残すことでしょう。被災した人の心のケアが大切だと言いながら、その傷口に塩を擦り込むような行為に思えてなりません。
寺で飼っている元はと言えば、捨て犬・野良猫であっても、私には見捨てることが出来ない大切な命であります。どのように考えて決めたことなのか、その心の冷たさを感じないわけにはいきません。
そして、今回の大震災でよく使われている言葉に『想定外』があります。この言葉を聞く度に、実に虚しくなるのは私だけでしょうか?『想定外』と言いさえすれば許されるとでも思っているのかと言いたくなってしまうのです。
科学が発展した今日、人間の能力に不可能はない、ぐらいに思い上がっていた結果ではないのでしょうか。私たち人間の手にした科学や力なんて、大したものじゃなかった。素直に認めなくてはならないと思うのです。
被災地の最前線で、必死になって行方不明者の捜索に取り組まれている自衛官や警察官。原発事故の現場で、被爆の恐怖にさらされながら懸命に作業をしている技術者たち、その人たちの姿に、私たちを含め安全地帯にいる人たちは何を思っているのでしょう。
責任ある立場の人たちの記者会見をしている姿からは、申し訳ないという思いが伝わって来ないのです。そう感じているのは私だけなのでしょうか。
天災だけであればあきらめがつくこともあるでしょう、しかし人災となると話は別だと思うのです。それを『想定外』と一言でくくられたのではたまりません。
私たちに必要な思いは、あくまでも生かされているという謙虚さと、人間の力のなさに対する自覚ではないかと思うのです。人知を超えるものが常に存在しているのだという謙虚さなくして、どうして身の安全を求めることが出来るというのでしょうか。
常に『あるかもしてない』という思いを持つべきではないでしょうか。人間のやることに『絶対』は無いと思うのです。もし万が一にも・・・。そう想定することが出来れば、想定外はなくなるのではないでしょうか。
安易な思いこみが『想定外』を生み出す源であると考えるものです。
今回の大震災で分かったことが沢山あります。今まで私たちは知らなかったことが、実に沢山あることが分かった。これは凄いことだと思っています。
今、タバコが無くなっています。あるのは外国タバコばかり、それすらも少なくなってきています。私の愛飲するJTのタバコは、ずいぶん前に店頭から姿を消しています。
タバコが無くなる、ビールも逼迫してきているらしい。世界の自動車生産が止まってしまう。まさかこんな事まで起こるとは想像もしていませんでした。
改めて日本という国の凄さを感じているところです。願わくは、被災地が一日も早く復興を遂げ、そこに暮らす人たちが平安で過ごせるようになることを祈るばかりです。
そして、無縁社会なる造語がはびこっている中で、多くの人がこの災害を我がものとして支援に駆けつけ、或いは支援の手助けをしていると言うことです。
まだまだ日本もすてたものじゃないと、今回の大震災が私たちに教えてくれているのだと感じています。
足(たる)を知れ 桐生南無の会会報平成23年4月号掲載文
3月11日午後、私は藤沢からの帰路にありました。足利市小俣町、あと十数分ほどで到着するというところでありました。赤信号で止まったとき突然車が揺れだしたのです。
最初は何が起こったのか分かりませんでしたが、地震であることに気が付くのにそう時間は必要ではありません。目の前の電柱が激しく揺れる様は、今まで経験したものをはるかに越え、とてつもない事態であることは容易に察しがつくものでありました。
3時ちょっと前に帰り着きましたが、すでに仏教会の会員の方がお見えになっていて、仏教会の花祭り稚児募集の案内を配布する準備をされているところでした。
私も加わり三人で作業をしたのですが、その後お見えになるはずの方々は来られません。でも、その時点ではまだ今日の事態は想像すら出来ませんでした。
作業中にラジオを出してきて、聞いていたのですが『大地震』であることは分かったものの、まだまだ気持ちには余裕があったと言えます。
既に半月以上が経過し、死亡者・行方不明者数は3万人に迫る大震災であり、未だ混乱の最中にあります。加えて福島県の原発事故であります。出口の見えない混乱は収まりそうにもありません。
桐生仏教会では既に50万円の義援金を拠出、私の寺でも20万円を拠出しました。現在仏教会をあげて募金活動を展開しているところであります。
全国、いや世界中の国や人々が援助の手を差しのべる中で、実に情けない姿が見受けられるのが極めて残念であります。
気が付けば、有りとあらゆる生活必需品が、いきなり店頭から消えてしまったのです。お米・カップ麺・菓子パン・ティッシュ・トイレットペーパー・乾電池、切りがありません。いち早く買い占めに走った人が出たのです。気が付いたら、もう何も残っていないと感じる有様です。
正直なところこの未曾有の大災害、誰しも不安に駆られるものであります。私とて同じです。口にこそ出しませんが相当なストレスを受けているのだと思います。タバコの本数が倍になってしまったことが動かぬ証拠であります。 しかし、被災地の惨状を見聞きし、物資の不足が連日報道されているのです。避難されている方は多いときには四十万人を超え、あらゆる物資が不足していることは明白であります。
幸いなことに、桐生市および近郊では屋根の瓦が崩れたりと被災はしているものの、津波に襲われた方々を思えば無傷に等しい状態です。電力不足に伴う計画停電により、暗く寒い時間を過ごさなくてはならないことも起こりましたが、三時間だけ我慢をすれば済むことです。
非常事態宣言が出てもおかしくない事態であります。皆で不便を分かち合い、我慢しなくてはなりません。それが私たち誰にでも出来る被災地、被災者に対する援助に他なりません。
少しでも無駄を省き、出来るだけ多くを被災地に回さなくてはならないのに買い占めに走るということは、実に醜い利己的な行為と感じるのです。
その極みが、ガソリン不足の有様であります。地震による精油所の火災も重なり充分な供給が絶たれ、緩和してきたとは言え、まだ開いているガソリンスタンドには、給油を待つ車の列を見ることが出来ます。その周囲は大渋滞に陥り、混乱の極みであります。
それは致し方ないことではあるのですが、長い列を作った車の中に、どれだけ本当に給油を迫られた車があったのでしょう。10リットルも入らずに満タンになる車が沢山あったというのです。先行きの不安から、常に満タンにしておきたい。不便を享受したくない。そんな利己的な、不要不急の車の持ち主のお陰で、本当に仕事のためにガソリンが必要な人がどれほど迷惑を受けたことでしょうか。
仕事で忙しい人は、何時間も並んで待っていることが出来ないのです。どこのスタンドが開いていると聞いても、仕事を投げ出して給油に時間を費やすことは出来ません。少しでもその人達のために遠慮しなくてはならないのではないでしょうか。
自分にとって一ヶ月にどれぐらいガソリンが必要なのか、あとどのくらい走れるのか、ドライバーなら分かっているはずです。必要以上のガソリンは要らないはずなのです。
こんな時であるからこそ、私たちは冷静にならなくてはなりません、分別をもって立ち向かわなくてなならないのであります。じっと我慢だってしなくてはならないこともあるのではないでしょうか。きっとお米を、カップ麺を買いすぎたとぼやく人がそのうちに現れるのだろうと想像しています。
少しだけ我慢すれば、なんの不便も感じません。自分の部屋で布団に潜り込んで寝ることが出来るだけでも幸せなことです。停電時、ローソクの明かりの下でラジオに耳を傾けたとき、どれほど贅沢な暮らしをしているのかが良く分かったはずです。
電気が、水道が、ガスが当たり前に使えることは、本当に素晴らしいことなんだと、素直に感謝しようではありませんか。文句を言っては罰が当たるというものです。
この大震災で亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々・地域が一日も早い復興を遂げることが出来ますように祈念申し上げる次第であります。
また、少しでもそのお手伝いをさせていただきたいと考えるものです。
大地の営み 桐生南無の会会報平成23年3月号掲載文
九州で新燃岳が噴火し、未だ収まる気配がありません。火山灰の処理に追われて大変な事態になっています。その影で鳥インフルエンザの騒ぎが霞んでしまっているようです。
とんでもない数の命が奪われています。人が病気になれば、ワクチンの接種等、様々な治療・処置が施されます。なぜ動物ではダメなのでしょうか。口蹄疫の時もそうですが、いたたまれない思いに駆られてしまいます。
そしてニュージーランドでの地震災害。日本と同じ地震国であるのに、なぜこんなに大きな災害になってしまったのだろうかと、悔やまれてなりません。そして驚いたことは、遠く離れているはずなのに、とても近い国だと言うことでした。
そこでは、沢山の日本人が暮らし、学んでいることを知ることになったからです。いまだに沢山の消息不明者が居ます。なんとか無事に救出されることを祈っています。
人知の遥か及ばない出来事が沢山あります。ところが私たちはそこから目をそむけていないでしょうか?それとも、人の力は有りとあらゆるものをねじ伏せることができると考えているのでしょうか?
自分の体・命であっても思いのままになりません。自分の周りをよくよく観察してみると、ほとんどのものが思いのままにならないと言う事実に突き当たります。人の無力さを嫌と言うほど感じることが大切なのではないでしょうか。
火山・地震、そして温泉。皆同じメカニズムの元にあります。以前にも書いたことがありますが、常に表裏一体の関係、糾える縄のごとしであります。温泉は好きだけれども地震は嫌だ。誰もが抱く思いであります。
そう思うことは至極当然のことでありましょう。偽らざる思いであります。しかし、どんなことをしようと、この願いが届くことはありません。私たちに出来ることは、備えを固めることしか有りませんよね。ここは危険だからと、住み慣れた土地を簡単に離れることも出来ません。だから、備えることしか方法はないのです。
そこから沢山の恵みをいただいていることも、紛れもない事実です。だとすれば、感謝の思いで謙虚にあらゆるものを受け入れる心も必要でありましょう。
アット言う間にお彼岸になり、様々な花が咲き乱れる季節がやってまいります。白木蓮は十ヶ月も前に花芽を用意して、今や遅しと出番を待っています。準備万端怠りなしです。
それに比べて、なんとずぼらな時間を過ごしてしまっているのだろうか。もっともっとあらゆる恵みに感謝し、怠ることがない人生を歩みたいものであります。
布施の精神を 桐生南無の会会報平成23年2月号掲載文
昨年のクリスマス、群馬県の児童相談所にランドセルがプレゼントされ、それが日本中に大きな広がりをもたらしました。タイガーマスク運動なる言葉さえも生み出した出来事であります。
匿名の寄付、その行為自体は大変素晴らしいことだと思うのだが、なぜ匿名なんだという思いが頭をかすめます。出来ることなら、ちゃんと顔が見える状態で、堂々と寄付をしていただきたいものです。
仏教では布施を説いています。布施行は、人に褒められるために行うものではありません。あくまでもさせていただくという行為であります。させていただくのであれば、名乗る必要もないかもしれませんが、それが本当に受け手にとって必要なものであるかは分かりません。一つ間違えば自己満足になりかねないものであります。
タイガーマスク運動が、これからの寄付のあり方に大きな波紋をもたらしてくれることを期待するところであります。来年も、再来年も、この運動が続くことを願っています。
実にほのぼのとした新年を迎えたわけですが、小学2年生に対する通り魔事件など、相変わらず身の毛もよだつ事件が起きています。ネット社会の弊害とでも言いましょうか、私たちの社会は、確実に人との関わり合い方が下手になっています。顔を向かい合わせて、生きた人間と係わるより、顔の見えないネット社会に安らぎを見出そうとしてしまう。虚構の世界と現実社会の見極めが出来なくなっています。
逆に、ネット社会での情報の伝達が、政権の存続さえ覆してしまうほどの力を持ってきてもいます。正しく諸刃の剣であります。私もネット社会を活用している一人でありますが、本当に必要な情報は得ることが出来ないことも承知しています。
殺伐とした世の中、何か社会の役に立ちたいという欲求と持つ人たち、逆に社会を恨んで思わぬ事件を引き起こすほんの一部の人。そんな中で、自分を見失うことなく生きることが求められているのではないでしょうか。
自らを灯火とせよ、法をよりどころとせよ。お釈迦様の言葉が、一層重みを増してきているように感じるものです。
布施を説く一人として、その責任の重さを痛感しているこの頃であります。今年のテーマは『皆当得生彼(かいとうとくしょうひ)』としました。お釈迦様の教えの下、皆が幸せになれなかったら、生まれてきた甲斐がない。そういいきれる世の中を目指さなくてはなりません。
『亡己利他』もうこりた、この音をどのように感じ取れるか、その心の豊かさが試されているのかも知れませんね。
この一年、皆様と一緒に前進してまいりたいと考えています。
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